【アスリートの原点】上野由岐子:伝説の「413球」を投げ抜いた豪腕は幼少期から健在

北京五輪で悲願の「金メダル投手」になった日本のエース

日本女子ソフトボールの功績は、上野由岐子の存在なくして語れない。初のオリンピック金メダルに輝いた北京五輪では、2日間で413球を投げ抜き、日本国民の心を揺さぶった。彼女はソフトボールと出合う前から優れた運動能力を発揮し、将来を嘱望される幼少期を過ごしてきた。

2008年の北京五輪では「上野の413球」という伝説を残しながら、見事金メダルを獲得した
2008年の北京五輪では「上野の413球」という伝説を残しながら、見事金メダルを獲得した2008年の北京五輪では「上野の413球」という伝説を残しながら、見事金メダルを獲得した

選手生命が危ぶまれるけがから復活

いまだ現役にして、日本女子ソフトボール界のレジェンド投手。1982年7月22日に福岡県で産声をあげた上野由岐子は、オリンピックには2度出場している。2004年のアテネ五輪では銅メダル、2008年の北京五輪では悲願の金メダルを獲得した。

なかでも北京五輪での投球は伝説として語り継がれている。

2008年8月20日、準決勝のアメリカ戦と決勝進出決定戦のオーストラリア戦が同日に行われたなか、上野は2試合続けて登板。いずれも延長戦までもつれ込む接戦で、2試合合計で318球を完投する。そして翌日には、アメリカとの再戦となった決勝戦に先発でマウンドに立ち、7回完投勝利。2日間で413球を投げ抜いて見せた。「上野の413球」という言葉は同年の「2008ユーキャン新語・流行語大賞」で審査員特別賞に選ばれた。

実は、上野は2000年のシドニー五輪でも、当時高校生ながら代表候補に名が挙がっていた。しかし、体育の授業中に走り高跳びの着地に失敗して腰椎を骨折。選手生命が危ぶまれるほどの大けがを負った。そこから看護師である母の協力も得て、奇跡的な回復を遂げて競技に復活を果たす。オリンピック史に名を残す選手へと成長した。

2006年のアジア競技大会では金メダルを獲得。同年の世界選手権では決勝でアメリカに敗れ銀メダルに終わっている
2006年のアジア競技大会では金メダルを獲得。同年の世界選手権では決勝でアメリカに敗れ銀メダルに終わっている2006年のアジア競技大会では金メダルを獲得。同年の世界選手権では決勝でアメリカに敗れ銀メダルに終わっている

マラソン選手をめざすも小学3年次に転機

120キロ台を記録するストレートと、多彩な変化球を合わせ持つ日本のエースは、福岡県福岡市で生まれた時から、周りの子どもより一回り大きかった。

幼少期から運動神経は抜群で、1歳で歩き始め、3カ月後には走り出した。小学生のころはマラソン選手をめざして父親と毎朝ジョギングに励んだ。ソフトボールとの出会いは、小学3年生の時。近所の少年ソフトボール団に入っていた友人から誘いを受けたことがきっかけだった。

ソフトボールでも、恵まれた運動神経は光った。小学校で福岡県大会を制し、中学時代には全国優勝を経験。当時、上野が投げると同世代の女子選手は全く歯が立たず、あまりにワンサイドなゲーム展開になることも多かったという。九州女子高校2年の時に最年少で参加した世界ジュニア選手権で優勝に貢献すると、ジュニア離れした速球から「オリエンタル・エクスプレス」という異名がついた。

オリンピックの初舞台を踏んだのは2004年のアテネ五輪。東京五輪では北京五輪以来の金メダルを狙う
オリンピックの初舞台を踏んだのは2004年のアテネ五輪。東京五輪では北京五輪以来の金メダルを狙うオリンピックの初舞台を踏んだのは2004年のアテネ五輪。東京五輪では北京五輪以来の金メダルを狙う

鳴り物入りで実業団チームに入団し、日本リーグ新人賞、MVP、最多勝と次々に個人賞を総なめにした。それらの輝かしい実績の裏には、トレーニングや食事、ユニフォームなど細部にこだわり、自分に厳しく努力を重ね続ける姿勢があった。

中学時代にソフトボールがオリンピック正式種目となった時から、「金メダル投手になる」ことが夢となり、北京五輪で見事に実現させた。その後、ソフトボールは五輪種目から除外されたものの、上野は復活に望みをかけ現役を続行してきた。38歳で迎える東京五輪。見据える先は、北京五輪時と同じ世界の頂点だ。

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