フェンシング:独自のスタイルで戦う有望株・敷根崇裕は、2017年の世界選手権で銅メダルを獲得

独自のスタイルを磨いて東京五輪の金メダルをめざす
試合中の敷根(右)。右手で握った剣を右ななめ下に下げ、そこから攻撃を仕掛ける独自のスタイルを極めてきた
試合中の敷根(右)。右手で握った剣を右ななめ下に下げ、そこから攻撃を仕掛ける独自のスタイルを極めてきた試合中の敷根(右)。右手で握った剣を右ななめ下に下げ、そこから攻撃を仕掛ける独自のスタイルを極めてきた

敷根崇裕(しきね・たかひろ)は、日本代表選手だった父、国体選手だった母の影響でフェンシングを始め、17歳でシニア日本代表メンバーの一員となった。剣先を下げる独自の戦い方は父親譲りのスタイルであり、松山恭介や西藤俊哉らライバルたちとの戦いのなかで、2020年東京五輪の金メダルをめざす。

2017年の世界選手権で銅メダルを獲得。尊敬する太田雄貴氏(中央)とライバルの西藤俊哉(右端)と一緒に写真に収まった/時事
2017年の世界選手権で銅メダルを獲得。尊敬する太田雄貴氏(中央)とライバルの西藤俊哉(右端)と一緒に写真に収まった/時事2017年の世界選手権で銅メダルを獲得。尊敬する太田雄貴氏(中央)とライバルの西藤俊哉(右端)と一緒に写真に収まった/時事

名手だった父の影響でフェンシングの道へ

父親の裕一氏は日本選手権で2位に入った経験があり、世界選手権に何度も出場した実力者だ。母親の直子さんも国民体育大会に出場した経験を持っている。

絵に描いたようなフェンシング一家に生まれ育った敷根崇裕(しきね・たかひろ)が本格的にフェンシングを始めたのは、彼が6歳の時だった。父親が顧問を務める高校の道場が遊び場で、1歳年上の兄、章裕と剣を交えて遊んでいた敷根がフェンシングの道に進むのは必然であり、家のリビングでも防具をつけて父親と相対するのが当たり前の日々を送っていた。

10歳の時、テレビで2008年北京五輪を見た。太田雄貴氏が男子フルーレで銀メダルを獲得する姿を見て、「オリンピック」や「メダル」といった目標がおぼろげながら見えてきた。もともとフェンシングをするには恵まれすぎているほどの環境に身を置いていただけに、頭角を現すのは早かった。小学生のころから全国大会に出場し、向かうところ敵なしの強さを見せつけていた。

しかし小学5年の時、全国大会で初めての挫折を味わった。1学年上の選手と対戦したのだが、どれだけ攻めても思うようにポイントが取れない。「なんなんだこの人は、強すぎる……」。その相手こそ、現在のフルーレ日本代表チームでキャプテンを務める松山恭助だった。

そこから敷根にとって松山が目標になった。松山に追いつき、追い越すために、それまで以上にフェンシングに取り組み、さらに実力を伸ばしていった。2015年11月には、17歳にしてフェンシング高円宮杯ワールドカップの団体メンバーに選出された。テレビを通じて銀メダル獲得の瞬間を見た太田氏、そして小学生の時から背中を追い続けた松山と同じチームだった。

両親ともにフェンシングの経験者。家のリビングでも防具をつけて父親と相対するのが当たり前だった
両親ともにフェンシングの経験者。家のリビングでも防具をつけて父親と相対するのが当たり前だった両親ともにフェンシングの経験者。家のリビングでも防具をつけて父親と相対するのが当たり前だった

めったにしない現地観戦でオリンピックへの思いが募る

2016年2月にドイツで行われたワールドカップで結果を出せず、惜しくもリオデジャネイロ五輪への出場は逃してしまったが、敷根は同年4月にフランスで行われた世界ジュニア・カデ選手権大会で男子フルーレ個人と団体で金メダルを獲得する。日本人選手としては史上初めての快挙だった。

2016年8月、敷根はリオデジャネイロに赴き、五輪のフェンシングの試合をすべて観戦した。男子フルーレ個人に出場した太田氏がまさかの1回戦敗退を喫する姿を目の当たりにし、ショックも受けた。もともとスポーツ観戦はほとんどせず、フェンシングについても対戦相手の試合を見ることはもちろん、動画を見て研究することもめったにないという敷根だが、会場の雰囲気、オリンピックの雰囲気を体感したことによって、2020年東京五輪への思いはより明確になった。

出場は逃したが、ブラジルまで飛びリオデジャネイロ五輪のフェンシングの試合をすべて観戦。東京五輪への思いを強めた
出場は逃したが、ブラジルまで飛びリオデジャネイロ五輪のフェンシングの試合をすべて観戦。東京五輪への思いを強めた出場は逃したが、ブラジルまで飛びリオデジャネイロ五輪のフェンシングの試合をすべて観戦。東京五輪への思いを強めた

父譲りの独自スタイルで相手を制す

フェンシングは剣先を相手に向けて戦うのがスタンダードだが、敷根のスタイルは一種独特だ。

右手で握った剣を右ななめ下に下げ、そこから攻撃を仕掛けていく。彼の種目であるフルーレは攻撃権の奪い合いがカギを握る種目だが、このスタイルなら打突の瞬間だけ剣先を相手に向けるため、剣先をはらわれる可能性が低く、攻撃権が奪われにくくなる。また、相手にとっては距離感がつかみにくいうえ、全身で攻め込んでこられるため、通常のスタイルよりも威圧感を覚えてしまう。ヨーロッパでは何人かいるが、日本でこのスタイルを自分のものにしているのは敷根だけだ。

この構えも、父の裕一氏の影響によるものだ。裕一氏は剣先を左ななめ下に下げて戦うスタイルを得意としていた。敷根は小さいころからその教えを受け、自分なりにアレンジを加えて、現在のスタイルにたどり着いたのだという。剣先を下げた状態で相手との間合いを測り、派手な大技を仕掛けるのではなく、細かいフェイクで相手を欺きながらポイントを奪うのが敷根のフェンシングの真骨頂だ。

ちなみに、裕一氏はリオデジャネイロ五輪後に日本フェンシング協会の強化本部長に就任し、2018年7月まで同職を務めた。敷根は所属する法政大学での練習に加え、味の素ナショナルトレーニングセンターでも父とともにトレーニングに励み、強化に努めてきた。リオデジャネイロで果たせなかったオリンピック出場の夢は、父親の悲願でもある。

10歳の時、太田雄貴氏(手前)が男子フルーレで銀メダルを獲得する姿を見て、オリンピックを意識するようになった
10歳の時、太田雄貴氏(手前)が男子フルーレで銀メダルを獲得する姿を見て、オリンピックを意識するようになった10歳の時、太田雄貴氏(手前)が男子フルーレで銀メダルを獲得する姿を見て、オリンピックを意識するようになった

「日本人同士でオリンピックの決勝を戦いたい」

2017年の世界選手権では、男子フルーレ個人で銅メダル獲得の快挙を成し遂げた。敷根にとってはシニアの大会で初のメダル獲得だったが、帰国してみるとハプニングが発生していた。鞄に入れていたメダルの紐を通す部分が折れ、首にかけられなくなっていたのだ。何とも締まりの悪い凱旋帰国となったが、「僕がほしいのは金メダルだけ」と、本人は意に介していない。

しかし翌2018年7月に中国で行われた世界選手権では、個人で38位、団体で7位と、いずれもメダルを逃してしまった。敷根の男子フルーレだけでなく、日本代表チーム全体で獲得したメダルはゼロ。2017年8月に日本フェンシング協会会長に就任した太田氏が「大変厳しい結果」と語るほどの屈辱的な成績となってしまった。続く12月の第71回全日本フェンシング選手権大会でも、敷根は準々決勝を前に三宅諒に敗れている。彼にとって、2018年は苦しい一年だったと言える。

それでも、敷根が掲げる目標に揺るぎはない。「東京五輪では金メダルを取りたい」。彼自身や1歳年上の松山に加え、敷根の同級生であり、法政大学のチームメートでもある西藤俊哉など、日本の男子フルーレは人材が充実している。東京五輪本番まで、彼らと切磋琢磨しながら技を磨いていけば、敷根が掲げる「日本人同士でオリンピックの決勝を戦いたい」という夢も、ただの夢ではなくなるだろう。

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