注目記事

中学生スイマーの岩崎恭子と、当時ほぼ無名の柔道家、野村忠宏が金メダルを奪取【1990年代の日本人メダリスト】

田村亮子は本命ながら2大会連続で銀メダル

文: オリンピックチャンネル編集部 ·
2004年のアテネ五輪までに柔道史上初のオリンピック3連覇を成し遂げた野村忠宏。伝説は1996年のアトランタ五輪で始まった

1990年代のオリンピックは日本にとって苦難の時だった。バルセロナ五輪とアトランタ五輪の2大会で手にしたメダルの数は計36個。1964年の東京五輪だけでアメリカが獲得した金メダルと同じ数だ。試練の時代にあっても、古賀稔彦、吉田秀彦、野村忠宏、田村亮子といった柔道家たちが輝きを発した。

14歳で金メダル獲得の偉業を果たした岩崎恭子さん(中央)。20歳で引退後、スポーツの普及と振興に関わる

柔道の古賀稔彦と吉田秀彦が世界王者に

1990年代が幕を上げると、未曾有の好景気であるバブル経済がしぼみ始めた。不況を及ぼしたバブルの崩壊は日本のスポーツ界にも影を落とした。

1992年、スペインのバルセロナで開催されたオリンピックで、日本勢は3枚の金メダルしか手にできなかった。バブル経済が芽吹いていた8年前のロサンゼルス五輪では10枚の金メダルを獲得しているから、バルセロナ五輪では苦戦したと言わざるを得ない。ロサンゼルスでは計32枚のメダルを持ち帰った一方、バルセロナでは計22枚のメダルにとどまった。

たった3枚の金メダルながら、1枚は世界中に強烈なインパクトを残すものだった。競泳の200メートル平泳ぎで世界の頂点に立った岩崎恭子は、大会直前に14歳になったばかり。2分26秒65という当時のオリンピック新記録をたたき出し、金メダルを獲得した。レース後、涙交じりに「今まで生きてきた中で、一番幸せです」と感想を漏らした少女の偉業はオリンピックの歴史にくっきりと刻まれている。14歳6日での金メダルは競泳における史上最年少記録となっている。

厳しい結果が続くバルセロナ五輪で奮闘したのは柔道勢だ。金メダルを2枚、銀メダルを4枚、銅メダルを4枚獲得している。日本選手団がたぐり寄せた計22枚のうち、約半数が柔道陣によるものだった。

金メダルに輝いたのは男子71キロ以下級の古賀稔彦(としひこ)と男子78キロ以下級の吉田秀彦だ。1988年のソウル五輪でオリンピックをすでに経験していた古賀は大会直前に負った左ひざの負傷という逆境をはねのけ、表彰台の頂点に立った。自分との練習中に先輩である古賀の左ひざを故障させた吉田は、「先輩のぶんまで頑張ろう」という気迫で戦い、世界王者に君臨した。

1996年のアトランタ五輪、道着を「左前」に着た相手に苦しめられ、田村亮子(上)は準優勝に終わった

奇策にはまり、決勝で敗れた田村亮子

小川直也、田村(谷)亮子、溝口紀子、田辺陽子が銀メダル、越野忠則、岡田弘隆、立野千代里、坂上洋子が銅メダルを手にした1992年のバルセロナ五輪における柔道勢の健闘は4年後に引き継がれた。1996年のアトランタ五輪では野村忠宏、中村兼三、恵本裕子の3選手が金メダリストとなった。

ひときわ大きな輝きを放ったのは男子60キロ級の野村だ。野村はその時、天理大学の4年生。祖父が柔道師範、父が名門、天理高校柔道部の元監督というサラブレッドながら、少年時代は体が小さいこともあり、期待どおりの活躍ができていたとは言えなかった。中学時代は奈良県大会でもベスト16あたりをさまよう状態で、ようやく全国の舞台にたどり着けたのは天理高3年次のことだった。奈良県を制し、インターハイ(全国高等学校総合体育大会)出場を決めた。

ほぼ無名の時代を長く過ごした野村にとってアトランタ五輪は人生初の大舞台。男子60キロ級の初戦となった2回戦、わずか38秒で大外刈を繰り出し一本勝ちを収めてみせる。3回戦では前年の世界選手権を制覇しているニコライ・オジェギン(ロシア)との激戦を逆転勝ちで制し、4回戦は背負い投げ、準決勝は内股、そして背負い投げを決めて、金メダルを獲得した。初のオリンピックで表彰台の頂点に立った野村は、柔道小説『姿三四郎』にちなんで「平成の三四郎」という異名をとり、2000年のシドニー五輪と2004年のアテネ五輪でも優勝を果たしている。

アトランタ五輪の柔道勢で4年前と同じく決勝で失望を味わったのが田村亮子だ。当時帝京大学に在籍する20歳は女子48キロ級で1回戦から準決勝まで順当勝ちを収め、バルセロナ五輪の決勝における敗戦以降の連勝記録を84に伸ばした。4年越しの金メダルが目前に迫った。

だが、田村はケー・スンヒ(北朝鮮)との決勝戦で奇策に苦しめられた。国際舞台の経験がなく、推薦枠で出場していた16歳の相手は柔道着の着方に手を加えてきた。右側を手前にし左側を上に重ねて着る「右前」が一般的だが、「暗黙のルール」を破り「左前」で会場に現れた。組み手争いで後手に回った田村は相手の勢いにも押され優勢負けを喫してしまう。オリンピックの金メダル獲得はまたしても4年後に先送りとなった。

女子マラソンの有森裕子(左端)はバルセロナでの銀メダルに続き、アトランタでは銅メダルを獲得している

「初めて自分で自分をほめたいと思います」

田村と同じ女性陣の奮闘としては、女子マラソンの有森裕子の名が挙げられる。4年前のバルセロナ五輪の銀メダリストだったが、その後は不調に苦しんでいた。

負傷や銀メダルの重圧、マラソンをめぐる人間関係……少なくない不安要素をはねのけ、3位でレースをフィニッシュした。ゴール後のインタビューで、有森は感極まって「初めて自分で自分をほめたいと思います」と話し、感動を巻き起こした。オリンピックにおける2大会連続のメダル獲得は、日本女子陸上選手では史上初の快挙だった。

アトランタ五輪の野球は銀メダルの成績。松中信彦(中央)ら、のちにプロ野球で活躍する選手たちが健闘した

一方、男子勢では銀メダルに輝いた野球チームが日本スポーツ史に新たなページを加えている。当時の野球はまだプロ選手の参加が認められておらず、日本は社会人16名、大学生4名というメンバー構成で臨んだ。

のちにプロ野球界の第一線でも活躍する福留孝介、松中信彦、井口忠仁、今岡誠、谷佳知、三澤興一らを擁したチームは準決勝で野球大国アメリカに快勝。5本の本塁打を放つ内容で、7回コールドとなる11−2で決勝に進んだ。最終的にキューバに9−13で競り負け準優勝に終わったものの、4年前のバルセロナ五輪の銅メダルを上回る成績は上々だったと言っていい。

3個の金メダル、6個の銀メダル、5個の銅メダル。アトランタ五輪で日本勢が手にしたメダルは計14個にとどまっている。22個に終わったバルセロナよりもさらに少なく、1990年代のオリンピックはさらなる発展が必須と痛感させられた暗雲の舞台だった。