小説家や官僚、内閣総理大臣や政治家、俳優やデザインディレクターに転身したオリンピアンたち

オリンピックの舞台からのキャリアチェンジは多種多様
第92代内閣総理大臣を務めた麻生太郎氏は、1976年のモントリオール五輪に出場している
第92代内閣総理大臣を務めた麻生太郎氏は、1976年のモントリオール五輪に出場している第92代内閣総理大臣を務めた麻生太郎氏は、1976年のモントリオール五輪に出場している

体が資本のスポーツ選手のキャリアはそれほど長くない。20代で引退の道を選ぶ例も少なくない。四年に一度の大舞台を経験し、メダルを獲得した人間たちにも否応なく幕引きの時期が訪れ、キャリアチェンジを迫られる。オリンピアンたちのさまざまな「第二の人生」を紹介する。

ランナーから小説家やスポーツジャーナリストに

オリンピックという大舞台に立った後、充実した「第二の人生」を送っている日本人元アスリートの筆頭は、増田明美氏だろう。

3000メートル、1万メートルの走者として活躍し、18歳になった時にマラソンに転向。1984年のロサンゼルス五輪に出場した。コンディション不良なども影響し、途中棄権の悔しさを味わったものの、だからこそ掛け替えのない経験を積んだ。

1992年、28歳の時に現役引退を表明する。セカンドキャリアとしてはスポーツライターとしての道を選んだ。共同通信社のコラムを書き始めるのとほぼ同時に、ラジオの情報バラエティー番組からパーソナリティーを務めないかという声がかかる。そして「書くこと」と「話すこと」が、増田氏の「第二の人生」の土台となっていく。

スポーツライターとしては1994年に発行した『増田明美の「テレビでマラソンを楽しく見る方法」』や2004年に発行した『夢を走り続ける女たち -女子マラソン炎の闘い』など、複数の著書がある。2007年から2008年には全3巻のマラソン小説『カゼヲキル』を出版。オリンピックというひのき舞台で途中棄権を経験した人間ならではの視点で、オリンピック出場をめざす少女の奮闘をを描いた。

「書くこと」と「話すこと」は現在のスポーツジャーナリストとしての活動にも生きている。陸上競技やマラソンの解説者としては、丁寧な取材に裏打ちされたわかりやすいコメントで、スポーツのおもしろさと競技者の魅力を伝える。優しい声ぶりにも定評があり、テレビ番組のナレーターを務めたり、テレビCMに声のみの出演を果たしたりしている。

1988年ソウル五輪で金メダルを獲得した鈴木大地氏は、現役引退後、順天堂大学スポーツ健康科学部助教授を務めている
1988年ソウル五輪で金メダルを獲得した鈴木大地氏は、現役引退後、順天堂大学スポーツ健康科学部助教授を務めている1988年ソウル五輪で金メダルを獲得した鈴木大地氏は、現役引退後、順天堂大学スポーツ健康科学部助教授を務めている

初代スポーツ庁長官を務める金メダリスト

1988年ソウル五輪で金メダルを獲得した鈴木大地氏は現在、大きな視点からスポーツの発展を促している。水泳選手だった鈴木氏は、潜水してドルフィンキックだけで水面の抵抗を減らして進む「バサロ泳法」を得意とし、100メートル背泳ぎを制し、日本競泳界に16年ぶりの金メダルをもたらした。順天堂大学体育学部在学中の偉業だった。

順天堂大学大学院体育学専攻に進学後、1992年に現役を引退。同大学院を修了した後は、コロラド大学ボルダー校の客員研究員やハーバード大学水泳部のゲストコーチなどを務めている。2006年には順天堂大学スポーツ健康科学部助教授に就任した。

アカデミックな場に立つ一方、日本水泳連盟理事、世界アンチ・ドーピング機構のアスリート委員会委員、日本水泳連盟会長、日本オリンピアンズ協会会長などを歴任。幅広い知識と経験を持つことから、2015年からは、スポーツ庁長官と、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会理事を務めている。スポーツ庁は文部科学省の外局として行政機関であり、鈴木氏は元アスリートというキャリアを生かし、官僚という立場からスポーツの振興を図る取り組みを行っている。

日本においては、オリンピアンから官僚や政治家に転身した例は少なくない。古くは1924年のパリ五輪の5000メートルと1万メートルに出場した岡崎勝男氏が外務省調査官、情報局情報官、外務省調査局長などを歴任。1964年の東京五輪と1968年のメキシコシティー五輪のサッカー代表としてプレーした釜本邦茂氏が参議院議員として活動した。近年では柔道で1992年のバルセロナ五輪からオリンピックに5大会連続で出場した谷亮子氏や、北京五輪とロンドン五輪のビーチバレーでプレーした朝日健太郎氏も参議院議員を務めている。

さらには、総理大臣を経験したオリンピアンもいる。2008年9月から第92代内閣総理大臣を務めた麻生太郎氏は、1976年のモントリオール五輪のクレー射撃に日本代表として出場している。

鈴木氏は現在、元アスリートというキャリアを生かし、スポーツ庁長官という立場からスポーツの振興を図る取り組みを行う
鈴木氏は現在、元アスリートというキャリアを生かし、スポーツ庁長官という立場からスポーツの振興を図る取り組みを行う鈴木氏は現在、元アスリートというキャリアを生かし、スポーツ庁長官という立場からスポーツの振興を図る取り組みを行う

5個の金メダルを獲得した後に、俳優の道へ

海外のオリンピアンで、華麗なる転身を果たした一人が、ジョニー・ワイズミュラー氏(アメリカ)だろう。

ワイズミュラー氏は1904年に生まれ、直後に東欧からアメリカに移住。子どものころに水泳を始め、1924年のパリ五輪では100メートル自由形、400メートル自由形、自由形リレーの3競技で金メダルを獲得。同大会には水球の選手としても出場し、銅メダルを手にしている。1928年のアムステルダム五輪でも2個の金メダルを首にかけた。

1929年に下着メーカーのモデルとなると、その後、俳優としてのキャリアを歩み始めた。代表作は1932年の『類猿人ターザン』から始まる映画ターザンシリーズで、ワイズミュラー氏は筋骨たくましい野性的な役を12作品で演じきった。

競泳で5個の金メダルを手にしたジョニー・ワイズミュラー氏(左端)は、現役引退後、俳優として活躍した
競泳で5個の金メダルを手にしたジョニー・ワイズミュラー氏(左端)は、現役引退後、俳優として活躍した競泳で5個の金メダルを手にしたジョニー・ワイズミュラー氏(左端)は、現役引退後、俳優として活躍した

ワイズミュラー氏と同じアメリカでは、ケイトリン・ジェンナー氏が現役引退後に俳優やテレビの世界で活躍している。ジェンナー氏の旧名はブルース・ジェンナー。1976年のモントリオール五輪の十種競技で金メダルに輝いた。もともとは男性だったが、性同一性障害を公表し、女性名のケイトリンに改名。法的手続きを経て、正式な改名と性別変更を認められている。2015年には女性としてアメリカの人気雑誌の表紙を飾り、「第二の人生」を本格的に歩み始めた。

ブルース・ジェンナー(左)は、金メダルを得た後、性同一性障害を公表し、ケイトリン・ジェンナー(右)として「第二の人生」を歩んでいる
ブルース・ジェンナー(左)は、金メダルを得た後、性同一性障害を公表し、ケイトリン・ジェンナー(右)として「第二の人生」を歩んでいるブルース・ジェンナー(左)は、金メダルを得た後、性同一性障害を公表し、ケイトリン・ジェンナー(右)として「第二の人生」を歩んでいる

国際オリンピック委員会もセカンドキャリアをサポート

アメリカ人では、ルイス・ザンペリーニ氏の「オリンピック後」も興味深い。1936年ベルリン五輪の5000メートルに出場。その後、アメリカ陸軍航空隊に入隊し、戦争捕虜として扱われたつらい経験を持つこともあったのか、戦後は伝道師としてキリスト教の布教に努めた。彼の心にあったのは「赦し」という思いであり、1950年には日本の巣鴨拘置所を訪れ、収容者たちに向けて「赦し」について説いている。

サッカーのイタリア代表のストライカーとしてプレーし、2004年のアテネ五輪では4ゴールを挙げ銅メダル獲得に貢献したアルベルト・ジラルディーノ氏は、2018年9月に現役を引退し、現在は「二足のわらじ」を履いている。多くの元アスリート同様、指導者としての道を歩み始め、下部リーグのサッカークラブのアシスタントコーチ及びテクニカルディレクターを務めている。一方で、アパレルブランドブランド「ITALIANDANDY」のブランドキャラクター兼デザインディレクターとしての活動にも精力的だ。

転職活動がうまくいかないこともあるのと同様、オリンピアンの「第二の人生」も必ずしも順風満帆ではない。選手時代は競技人生に打ち込むのが当然で、引退後をしっかりと見据えることがなかなかできないのが実情だ。各国のオリンピック委員会やスポーツ界はその現実を受け止め、それぞれにキャリア支援プログラムを行っている。国際オリンピック委員会も「アリート・キャリア・プログラム(Athlete Career Programme)」という活動を展開し、選手たちの充実したセカンドキャリアをサポートしている。

アルベルト・ジラルディーノ氏は指導者として活動する一方、パレルブランドブランドのブランドキャラクター兼デザインディレクターも務める
アルベルト・ジラルディーノ氏は指導者として活動する一方、パレルブランドブランドのブランドキャラクター兼デザインディレクターも務めるアルベルト・ジラルディーノ氏は指導者として活動する一方、パレルブランドブランドのブランドキャラクター兼デザインディレクターも務める

楽しめましたか?お友達にシェアしよう!