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日本中が泣いたロサンゼルスの瀬古惨敗

文: 御免眞平 ·
瀬古利彦は金メダル有力候補とされながらも、ロス五輪は14位に沈んだ(写真はソウル大会/時事)

本命が敗れることは珍しくないが、日本中が涙を流した敗退がある。1984年のロサンゼルス大会での男子マラソンで14位となった瀬古利彦だ。彼以上の悲劇を聞いたことがない。

そのころ瀬古は上り盛りで全盛を迎えていた。早大2年生だった78年の福岡国際マラソンで優勝。翌年もこの大会に勝ち、80年のモスクワ五輪の代表に選ばれたが、ソ連のアフガニスタン侵略で日本政府が出場ボイコット。不運の不出場となった。

「出ていれば金メダルだっただろう」と多くの関係者は言う。その証がモスクワ大会の同じ年の12月の福岡国際。瀬古は2時間9分45秒と初めて10分台を切っただけでなく、モスクワ金メダルのチェルビンスキー(東ドイツ)に勝った。

瀬古はその後も勝ち続けた。81年のボストンで2時間9分26秒。83年には東京国際で自己最高の2時間8分38秒を記録し、福岡国際でも2時間8分52秒と国内に敵なし、世界でもトップランナーとなった。

そしてロサンゼルス。「瀬古の金メダルは確実」と世界もその実力を認めていた。8月のレースなので「暑さ対策」としてグアムやニュージーランドで合宿して調整。レース直前で現地に入った。

レースの序盤はいつものペースだった。それが勝負どころの35キロあたりから後退。見たこともない必死の形相で走るようになったが、メモリアルスタジアムに入ってきたときはすっかり日が暮れ、14位。2時間14分13秒の惨敗だった。このタイムは10回のマラソン優勝で最も悪かった。

瀬古によれば「25キロあたりから足に変調を感じた」。レース2週間ほど前から下痢、脱水症状を起こし、倦怠感を抱えたまま本番に入ったという。勝つためにナイロン製の靴を勝ち続けていたときの布製に戻すなど意気込みは半端ではなかった。

ボイコットのリベンジ、金メダルの期待、そのプレッシャーとストレス、常勝瀬古のプライド…。こんな試練を背負ってのレースだった。それを日本のファンは知っていたからこそ、夕闇のゴールに涙を流したのである。

ロサンゼルス大会の後、瀬古はロンドン、シカゴ、ボストンなどで4連勝し、88年のソウル五輪に出場したが、ここでは9位に終わった。五輪ではとうとう勝つことができなかった。陸連の中には「モスクワでの金メダルは堅かった。そうすればロサンゼルスでも勝っただろうし、ソウルで五輪3連覇もあったのではないか」との声があった。

ボイコットというアクシデントに遭遇したことが分岐点になったことは間違いないだろうけども、五輪という大舞台に魔物が住んでいるような気がしてならない。五輪は心身とも万全でなければ勝てないともいえる。

ロサンゼルスは柔道の山下泰裕(現JOC会長)が足の故障にも関わらず金メダルを獲得したことでも知られる。山下はその後、国民栄誉賞を受けた。「世界一のランナー」と評された瀬古にとって複雑だっただろう。 モスクワ、ロサンゼルスの数年間は「思い出すのも嫌だ」と告白している。

四日市工高(三重)時代の瀬古は中距離ランナーで、マラソンに専念したのは早大に入ってから。箱根駅伝では1年生から「花の2区」を走った。大学時代は「修行僧」といわれたほど頑な姿勢を見せたが、これは騒がれるのを避けるためで、実際は明るいスポーツマンである。現在、東京五輪のマラソン強化戦略プロジェクト・リーダーとして露出度が高い。

東京五輪のマラソンが札幌に移ったとき、代表選手の一人が瀬古に「場所は変わっても走れるだけ幸せです」と言葉をかけた。おそらくその一言で瀬古の苦しい思いは消えたのではないだろうか。