田知本遥:七転び八起きの柔道人生。最後に大輪の花を咲かす

屈辱のロンドン五輪からリオデジャネイロで金メダルを掴む

ロンドンオリンピックの屈辱から這い上がり、リオデジャネイロオリンピックでは見事金メダルを獲得した田知本遥(たちもとはるか)。柔道人生を左右するような数々の壁にぶち当たっても、常にそれを乗り越えてきた。2017年に現役を引退したが、約20年間に及んだ彼女の競技人生は、まるでできすぎた小説のようだった。

苦難の数々を乗り越え、リオ五輪での金メダル獲得という有終の美を飾った田知本遥
苦難の数々を乗り越え、リオ五輪での金メダル獲得という有終の美を飾った田知本遥苦難の数々を乗り越え、リオ五輪での金メダル獲得という有終の美を飾った田知本遥

1歳年上の上野巴恵が立ちはだかった中・高時代

1990年8月3日、富山県射水市に生まれた田知本遥は、小杉小学校2年生のときに「習いごとをしてみたい」と母に言ったところ、父がやっていた柔道を勧められ、姉(田知本愛/女子78kg級で活躍)とともに、地元の小杉少年柔道クラブに入部した。

理由は父親とのコミュニケーションを「より密にして欲しい」という母の配慮からだ。父によると田知本は、飲み込みが速く、言われたことはすぐにできる子どもだったそうだ。本人も技を習得することは楽しかったと語っている。当時は週2回の道場での練習以外に、自宅の和室で父親から基礎を教えてもらっていた。

2003年、田知本は小杉中学校へ進学。顧問の先生のもとで寝技を徹底的にマスターする。1年生のときに、全国中学柔道大会(女子63kg級)に出場すると、「あれよ、あれよ」と言う間に勝ち上がり、全国3位という成績を収めた。部内でも、そこまで期待される選手ではなかったことから、「先生の驚いた顔が印象に残っている」と当時の思い出を語っている。

続く、中学2年生のときは、同大会で決勝に進むものの、1学年上でのちに何度も対戦することになる上野巴恵に、大外刈りで敗れて準優勝にとどまった。階級を70kg級に上げた中学3年生では5位に終わっている。

2006年、小杉高校へ進学。高校時代は、自分で考えて練習する意識が芽生えた時期でもあった。男子部員といっしょに練習し、「今日はこの練習をする」と決めて稽古に励んでいたという。高校1年生のときに出場したインターハイの団体戦で優勝。しかし、個人戦はライバルである上野に敗れ、準優勝に終わる。しかし、2月に自身初のシニア国際大会となるベルギー国際柔道大会に出場し、見事に優勝を飾った。

高校2年生のときのインターハイも、団体戦で優勝するものの、個人戦では、またしても上野に敗れた。他方、国際大会ではアジアカデ・ジュニア柔道選手権大会で優勝、ベルギー国際柔道大会で2連覇を果たした。

3年生では、団体戦が県予選で敗退してしまったため、個人戦のみでの出場となった。田知本は決勝戦で石井優花を下し、念願の優勝を果たす。勢いそのままに9月に行われた全日本ジュニア柔道体重別選手権大会、10月の世界ジュニア柔道選手権大会でも優勝。高校卒業を目前に控えたワールドカップ・ウィーン(現ヨーロッパオープン・オーバーヴァルト)で、上野を準決勝で破って初めての勝利を手にするが、決勝戦で國原頼子に「袖釣り込み腰」を決められて、準優勝に終わった。

ロンドン五輪準決勝で中国の程菲との対戦時、肘を負傷し判定負け、大会後も精神的ダメージを引きずることになる
ロンドン五輪準決勝で中国の程菲との対戦時、肘を負傷し判定負け、大会後も精神的ダメージを引きずることになるロンドン五輪準決勝で中国の程菲との対戦時、肘を負傷し判定負け、大会後も精神的ダメージを引きずることになる

試合中の怪我で不本意に終わったロンドン五輪

2009年、田知本は姉の愛、そして、北京五輪で金メダルに輝いた塚田真希と同じ東海大学へ進学した。入学してすぐの5月、フランスジュニア国際大会で優勝。6月の全日本学生柔道優勝大会で2位。7月のグランドスラム・リオデジャネイロ2009は5位に終わるものの、10月の全日本学生柔道体重別選手権大会で優勝を飾った。年明け1月のワールドカップ・ソフィアでは今井優子に敗れて2位だった。

大学2年の5月に、グランプリ・チュニスでIJFワールド柔道ツアー初優勝。10月のグランプリ・ロッテルダム、12月のグランドスラム・東京でも優勝を果たす。しかし、このころから負ける試合も増え、田知本自身はスランプを感じていたようだ。

復調したのは3年生の2月に行われたグランドスラム・パリ。準決勝でロンドンオリンピック代表争いをしている國原に一本勝ちし、決勝では世界チャンピオンのリュシ・デコスを判定で下して優勝する。その後のコメントでは、オリンピックに向けて「監督やコーチに最高のアピールができた」と語った。

4年生となり、5月の全日本選抜柔道体重別選手権大会で初優勝。ロンドン五輪の切符を手にする。選ばれた直後の気持ちを尋ねられた田知本は、「あまり実感が沸かず、ふわふわした気持ちだった」と後日発言している。8月のロンドン五輪では第3シード(世界ランキング3位)となり、初戦で勝利を収めたものの、準々決勝の試合中に肘を負傷し、旗判定で敗れてしまう。敗者復活戦でも敗退し、田知本の初めての五輪は7位という成績で終わった。そのときの感想を「畳に上がった瞬間はわくわくしていましたが、怪我をした瞬間に暗闇へと落ちていきました。天国と地獄の両方味わったような1日でした」と語っている。

2013年、田知本は東海大学を卒業し、綜合警備保障所属となる。世界選手権代表に選ばれるも初戦で敗退。この年、個人戦では一度も優勝することができなかった。2014年も不調が続き、「頑張りたいのに頑張りかたが分からず、同じような過ちを繰り返す」状態だったという。その背景には、ロンドン五輪後のモチベーション低下があったようだ。田知本はこの状況を変えるべく1カ月間イギリスに滞在する。「みなさん本当に柔道を好きでやっている。生き生きしてやっているのを見て、初心を思い出しました」と振り返る。帰国後、「負ければ引退」という覚悟で臨んだ11月の講道館杯で、新井千鶴を破って優勝を果たした。

田知本(下)は国内のライバル、新井千鶴(上)を全日本体重別選手権で下し、リオ五輪の切符を獲得した(写真は2015年のもの)
田知本(下)は国内のライバル、新井千鶴(上)を全日本体重別選手権で下し、リオ五輪の切符を獲得した(写真は2015年のもの)田知本(下)は国内のライバル、新井千鶴(上)を全日本体重別選手権で下し、リオ五輪の切符を獲得した(写真は2015年のもの)

ノーシードから金メダル

2015年に入り、風邪を引いた際に、ドーピング違反成分入りの市販薬を誤って服用したことをコーチに伝え、出場予定だった2月のグランプリ・デュッセルドルフへの出場を取りやめた。このドーピング騒動が原因で、田知本には法令・規定違反行為にあたる警告処分が下され、世界選手権の選考からも外されてしまった。ただ、出場停止処分ではなかったため、田知本は試合に出場できた。

7月のグランドスラム・チュメニ、10月のグランドスラム・パリで連続優勝を飾ると、翌年に控えるリオデジャネイロ五輪を強く意識するようになる。2016年2月のグランドスラム・パリでは、準優勝に終わるものの、4月の全日本選抜柔道体重別選手権大会の決勝で、五輪代表の座を争っていた新井千鶴を破り、リオ五輪代表に選ばれた。

リオ五輪でついに金メダルを獲得した瞬間、田知本は涙に暮れた
リオ五輪でついに金メダルを獲得した瞬間、田知本は涙に暮れたリオ五輪でついに金メダルを獲得した瞬間、田知本は涙に暮れた

世界ランキング12位、ノーシードで迎えたリオ五輪。日本代表選手の中では、ただ一人だけ1回戦からの登場となった。初戦は合わせ技一本で突破。2回戦は世界ランキング1位のオランダのキム・ポリングと対戦。延長戦までもつれ込み、最後は大外刈りで有効を取り辛勝。カナダのケリタ・ズパンシックとの準々決勝も延長戦まで戦い、技ありで勝ち進む。準決勝はドイツのラウラ・ファルガスコッホと戦い、大外刈りの技ありで勝利。決勝はコロンビアのジュリ・アルベアルとの対戦。谷落からの崩袈裟固めで合わせ技一本を取り、長年の夢であった金メダルを獲得した。「相手を押さえ込んでいる間はこのチャンスを逃すものかの一心だった」と試合後に感想を述べた。

現役引退、新たな道を歩む

オリンピック金メダリストになった田知本は、2017年4月に筑波大学大学院へ入学し、人間総合科学研究科スポーツ健康システムマネジメントを専攻。10月に現役からの引退を発表、「柔道家としてこの道で、次に求める気持ちが湧いてこなかったことが理由のひとつ」と退く理由を明かす。今後は「また次の道で、新たに成し遂げたいことを見つけ、極めていく姿勢をお見せできるように成長していきたい」と語った。

現役時代、イバラの道を歩んだ田知本遥。五輪金メダルという有終の美で競技者としての人生の幕を閉じ、現在は指導者として新たな道を歩み始めている。

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