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第1回オリンピックの参加国は14カ国。今では国際連合加盟国をしのぐ国が参加する世界的祭典に

1964年の東京五輪から100カ国規模の大会に

2016年のリオデジャネイロ五輪には205もの国と地域が参加。2020年の東京五輪ではその数を上回る可能性も十分だ

2016年のリオデジャネイロ五輪には205もの国と地域が参加した。フランスの貴族の家系に生まれたピエール・ド・クーベルタン男爵が古代オリンピックの存在に注目して近代オリンピックを提唱した時、1896年のアテネ五輪では14カ国だったから、約15倍の規模にふくれ上がったと言える。参加国の数やその要因を読み解くだけでも、オリンピックの歴史と、四年に一度の祭典が果たしてきた役割を深く知ることができる。

第1回オリンピックは個人的な参加がほとんど

オリンピックを定義づけるとすれば、「四年に一度開催される世界的なスポーツの祭典」ということになるだろう。

文字どおり、オリンピックは地球規模で行われており、2016年のリオデジャネイロ五輪には過去最多の205もの国と地域が参加している。2017年10月時点の国際連合加盟国は193カ国だから、その数をしのぐ。オリンピックは国際平和と安全の維持を目的とした機関以上に多くの国がかかわる、正真正銘の大舞台だ。

ただ、当初からそうだったわけではない。1896年にギリシャのアテネで開催された第1回オリンピックに参加したのは14カ国だけ。1894年にすでに国際オリンピック委員会(以下IOC)は発足していたとはいえ、国際組織としての機能度はまだ低かったのも一因だ。参加選手は国の代表ではなく、大学やクラブでプレーする選手が個人的に参加したケースがほとんどだった。個人単位によるスポーツの大会という意味合いが強かった。

続く1900年のパリ五輪には24の国と地域から参加者が集まっている。1904年のセントルイス五輪ではその約半分の13に減少。セントルイス開催の参加国が少なかったのは、当時はまだ交通手段が未発達だったためだ。アメリカまでの移動に少なくない時間と費用がかかるため、遠征を控えたアスリートが多かった。当時のオリンピックは個人によるスポーツ大会の域を出ておらず、旅費や宿泊費などは選手自身が負担していた。

1908年のロンドン五輪の開会式。この大会から各国のオリンピック委員会を通して参加を申請する形式が採用された

1908年のロンドン五輪から国単位での参加が浸透

参加方法に関して、オリンピックに変化が訪れたのは1908年のロンドン五輪だ。

この大会を機に各国のオリンピック委員会が組織として整備され始めた。すでに述べたとおり、1904年の大会までは、個人やチーム単位での申し込みがほとんどだった。だが、1908年のロンドン五輪を迎えるにあたって、各国のオリンピック委員会を通して参加を申請する形式が採用された。

1908年のロンドン五輪に参加したのは22の国と地域で、1900年のパリ五輪の24より少ない。ただし、パリ五輪の舞台に立った選手が997人だったのに対し、8年後のロンドンでは1999人にふくれ上がった。2大会後にほぼ2倍の参加選手が募ったのは、各国のオリンピック委員会が中核としての役割を果たし始めたからに他ならない。

日本が初めてオリンピックに参加した1912年のストックホルム五輪では28の国と地域から2490人、1920年のアントワープ五輪では29カ国から2668人と、着実に参加国が増えていく。1916年にはドイツのベルリンでオリンピックが行われる予定だったが、第一次世界大戦を理由にベルリン五輪は中止に追い込まれてしまう。ベルギーのアントワープも戦禍に見舞われたが、近代オリンピックの開催を提唱したピエール・ド・クーベルタン男爵が「平和の祭典」としてあえてアントワープでの開催を決めた。

各国のオリンピック委員会が仕切ることで、オリンピックは「国を代表するアスリートたちの大会」という位置づけが強まった。「平和の祭典」という代名詞も拍車となり、参加国は増えていく。第二次世界大戦後に行われた1948年のロンドン五輪には59の国と地域から4064人のアスリートが集まった。

アフリカの多くの国は独立時の1960年代に初参加

14カ国で始まったオリンピックが100カ国規模の大会になったのは、1964年の東京五輪だ。93の国と地域から5152人の選手たちが日本の舞台で勝利をめざして奮闘した。1960年代にはアフリカで多くの国が植民地から独立したり、「黄金の60年代」と言われるほど世界経済が成長したり、大型ジェット旅客機が浸透したりと、さまざまな要因がオリンピックの活性化を促した。

以降、1984年のロサンゼルス五輪では140の国と地域、2004年のアテネ五輪では201の国と地域と、参加国は確実に増えている。1896年の第1回から振り返れば、当然、ほとんどの国は初参加だった大会がある。

初参加について言えば、「世界的なスポーツの祭典」なだけに、国際政治と全く無縁なわけではない。すでに述べたとおり、1960年代のヨーロッパ諸国の植民地から独立したアフリカの多くの国は1964年の東京五輪で初のオリンピックを体験している。アルジェリア、カメルーン、チャド、コンゴ共和国、コートジボワール、リビア、マリなどが初舞台を踏んだ。

2011年に分離独立した南スーダンは、2016年のリオデジャネイロ五輪でオリンピックに初めて参加した

21世紀に入ってからも、独立してオリンピックに参加する国が存在する。

2002年にインドネシアの占領から独立した東ティモールは、翌2003年に国内のオリンピック委員会を設立。2004年アテネ五輪がオリンピック初参加となった。ただし、独立準備中の2000年に、シドニー五輪の「オリンピック個人選手団(Individual Olympic Athletes)」として東ティモールのカリスト・ダ・コスタが男子マラソンを完走している。

近年では2011年にスーダンから分離独立した南スーダンが、2016年のリオデジャネイロ五輪でオリンピックに初めて参加した。南スーダンから世界の舞台に挑んだのは3選手。当時19歳のマーガレット・ハッサンが陸上の女子200メートルに、大会中に23歳となったサンティノ・ケニーが男子陸上の1500メートルに、当時32歳のグオル・マリアルが男子マラソンに出場している。

セルビア出身のヤスナ・セカリッチ(左端)は1992年のバルセロナ五輪に「オリンピック独立参加選手団」の一員として参加している

2016年のリオデジャネイロ五輪では「難民選手団」が結成

「国を代表するアスリートたちの大会」という位置づけが強まった一方、「国境」という壁を超えてオリンピックの舞台に立った選手たちも少なくない。歴史が示すように、時に「国境」は戦争や紛争の引き金になってきた。「国境」にこだわりすぎるのは、「平和の祭典」であるべきオリンピックにふさわしくない。

前に触れた「個人オリンピック選手団」と同じような形で、「オリンピック独立参加選手団(Independent Olympic Athletes)」という参加方法も存在する。諸事情で国内のオリンピック委員会が設立されていなかったり、IOCの制裁下にあったりする場合に、国の問題を理由に選手が参加できなくなるのを防ぐ救済措置だ。1992年のバルセロナ五輪にはユーゴスラビア人やマケドニア人、セルビア人が「オリンピック独立参加選手団」を形成している。ユーゴスラビア紛争による影響で、IOCからの制裁を受けていたためだ。セルビア出身のヤスナ・セカリッチは10メートルのエアピストル競技で銀メダルを獲得している。

2016年のリオデジャネイロ五輪では、「オリンピック難民選手団(Refugee Olympic Team)」が大きな注目を集めた。それぞれの事情で自国から逃避せざるを得なくなり、母国からオリンピックに出場できない選手たちで混合チームが結成された。エチオピアやコンゴ民主共和国、シリアを祖国とする10人の選手は、独自の旗とともに開会式に登場。母国という共同体の後ろ盾なしに世界の舞台に挑んだ10選手の存在は、世界のあり方を再考させるきっかけとなった。

14カ国という小規模で始まったオリンピックは、いまや単なる「国を代表するアスリートたちの大会」にとどまらない舞台となった。「平和の祭典」であると同時に、世界のあり方を投影した一面も持っている。

2016年のリオデジャネイロ五輪では「オリンピック難民選手団」が結成され、世界のあり方を再考させるきっかけとなった

難民選手団にスタンディングオベーション

リオ2016開会式で、史上初めて結成された難民選手団は観客からスタンディングオベーションを受けた。