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絶望、金メダル、そして国民栄誉賞-激動五輪に遭遇の山下泰裕

文: 御免眞平 ·

まるで霧の中に迷い込んだ「2020東京五輪」。山下泰裕JOC会長の苦渋に満ちた表情には、過ぎ去った激動の体験がよみがえっているようだった。

「怪童」と呼ばれた少年時代から、日本柔道の象徴となった「怪物」。それが山下だった。公式戦559試合で528勝16敗15分け、勝率9割7分2厘。ギネスブックに載った203連勝(1分け含む)のまま現役を終えている。

この戦いの中には劇的な出来事がいくつもあった。

山下泰裕は絶頂期にありながら、ボイコットにより1980年の五輪出場を逃した

あれは1980年、モスクワ五輪のことだった。山下は絶頂期にあり、無差別級の日本代表で「金メダル確実」といわれ、世界からは「敵なし」とも。それが暗転する。東西冷戦の時代。アフガン侵略のソ連(当時、現ロシア)に抵抗して米国をはじめとする西側諸国が直前に五輪ボイコット。日本も同調した。

同じく金メダル候補だったマラソンの瀬古利彦も涙の中にいた。

絶望から4年後の84年、ロサンゼルス五輪。皮肉にも正反対の西側開催の大会である。東側から唯一参加したのは女子体操のナディア・コマネチで知られるルーマニア。開会式でロナルド・レーガン大統領はスタジアム最上段の防弾された小部屋から開会宣言する“不穏な五輪”の様相だった。

無差別級代表の山下に天はまたもや試練をもって迎えた。2回戦の西ドイツ(当時)の選手と対戦したとき、右足ふくらはぎ肉離れ。軸足だったから関係者は青ざめた。それでも山下は送り襟締めで勝った。準決勝は効果の先手を取られた。相手はフランス選手。逃げ切りを図るのをつかまえ大内刈り-横四方固めの合わせ技で逆転勝ち。

決勝はエジプトのモハメド・ラシュワン。はじめから右足を狙ってきた。さすがに山下の足の動きは鈍い。防戦の中でラシュワンの体勢が一瞬崩れたところを逃さなかった。横四方固めで制した。勝利のホイッスルが鳴ると、山下は顔をくしゃくしゃにして喜びを表した。

「なにがなんでも金メダル、と決意して臨んだ。期待に応えられて本当によかったし、うれしい」

モスクワのリベンジを果たした男の意地がうかがえた。日本のメディアは興奮し、感動の報道一色。モスクワ代表候補で出場した選手の中で、山下はたった一人の金メダリストだった。瀬古は惨敗、悲憤の象徴となった。

この山下の決勝には後日談がある。終わった後、ラシュワンは山下の右足を責めなかった、と美談が流れた。実際は狙ってきた。山下は後年語った。

「相手の弱いところを攻めていくのは当たり前で、それが本当の勝負。私も相手の弱点を攻める技を持っていれば、それで攻めていく。それが本当の勝負なんです」

金メダルの言葉は重い。暗雲のかかった政治色の強かった大会だっただけに、この山下の駆け引きのない“頂点の戦い”は貴重なものだった。

身長180センチ、体重108キロ。相撲で言えばアンコ型。ただ運動神経は抜群で、後ろ向きに走る姿は躍動感あふれる見事さ。あまり知られていないが、100メートルを13秒ほどで走る俊足の持ち主だった。この下半身が栄光を支えた。

 帰国。モスクワのうっ憤を晴らしたヒーロー。山下は責任を果たしたことで「ホッとした」と本音をもらした。4年間、重かったものをやっと下した安ど感でいっぱいだった。そしてプロ野球の王貞治に次ぐスポーツ界2人目の「国民栄誉賞」(中曽根康弘首相)に輝く。

今、東京五輪の責任者である要職にある山下。難問のあるところに、不思議と遭遇する。そういう運命なのだろう。歴史は人を呼ぶ、というけれど、山下は日本の五輪事件の証言者である。