高橋尚子:「Qちゃん」はシドニー五輪で、金メダルとともに何を得たのか?

金メダル後に自身のスピードの限界に挑戦
シドニー五輪の女子マラソンで金メダルを獲得。「すごく楽しい42キロでした」と話した
シドニー五輪の女子マラソンで金メダルを獲得。「すごく楽しい42キロでした」と話したシドニー五輪の女子マラソンで金メダルを獲得。「すごく楽しい42キロでした」と話した

日本陸上界にとって64年ぶりの金メダルは、彼女にとっては一つの通過点に過ぎなかった。「Qちゃん」の愛称で親しまれる高橋尚子は、2000年9月24日、シドニー五輪の女子マラソンでトップでテープを切った後も、挑戦を続けた。今も、自分なりのレースを走り続けている。2度のベルリンマラソンや、現役最後となった2008年の名古屋国際女子マラソンを取材し、引退会見にも立ち会ったスポーツ記者が、シドニー五輪以降に高橋が見た光景を描く。

2001年4月、事実上の「プロ」に

マラソンを走り終えた後、あんなに涼しい顔でレースを振り返れるものなのかと、多くの人が驚いた。2000年9月24日。シドニー五輪の女子マラソンで金メダルを獲得した高橋尚子はレース後、テレビのインタビューに答え、こう締めくくった。

「皆さんの声援のおかげで、本当に背中を押してゴールまでたどり着きました。すごく楽しい42キロでした。どうもありがとうございました」

そこに涙はなく、ごく自然な笑顔だけがあった。

陸上競技において、日本の女子選手が初めて獲得した金メダル。日本陸上界にとっても64年ぶりの金メダルだった。2時間23分14秒の記録は、当時のオリンピックレコードにもなった。

高橋は金メダルとともに何を得たのか? 快挙の約1カ月後、2000年10月30日に国民栄誉賞を授与された。得られたものは名誉やモノだけではない。当時、28歳。アスリートとして、前人未到の高みに挑戦する未来も手に入れた。

翌2001年4月、事実上の「プロ」になった。日本陸上競技連盟を通じて、日本オリンピック委員会(JOC)の選手強化キャンペーン事業の適用除外の申請を行い、承認された。積水化学の所属は変わらないが「プロ活動ができる実業団所属選手」としての適用第1号となった。「プロ野球やサッカーの選手のように、子どもたちが陸上選手になりたいな、と思ってくれるようにがんばりたい」と夢を語った。お菓子メーカーなどのテレビCMにも出演するなどスポンサーが増え、活動の幅を広げていった。

ただし「陸上が第一」という姿勢に変わりはなく、次のターゲットに選んだのは、テグラ・ロルーペ(ケニア)が保持していた世界記録2時間20分43秒の更新だった。

2001年9月30日のベルリンマラソン。狙いどおりに、2時間19分46秒の世界記録で優勝した。2時間20分を切った最初の女子選手になった。高橋は「今まではオリンピックがかかっていたりとか、順位がメーンだったけど、自分自身のスピードの限界に挑戦できました」と振り返った。

オリンピックレコードで日本の女子選手で初の金メダル。前人未到の高みに挑戦する未来も手に入れた
オリンピックレコードで日本の女子選手で初の金メダル。前人未到の高みに挑戦する未来も手に入れたオリンピックレコードで日本の女子選手で初の金メダル。前人未到の高みに挑戦する未来も手に入れた

幻に終わったシカゴでの世界記録再更新

なぜ強いのか、理由はいくつもある。

当時の1分間の平均心拍数は、一般女性の約半分の30台。非常識とされた3500メートルの高地でトレーニングするなど、空気の薄い場所で鍛え抜いた。内臓が強く、高カロリーを摂取でき、新陳代謝能力は抜群。食べられるからきつい練習ができ、きつい練習ができるから強くなる。

空間認識能力も高かった。世界記録を出した時、事前に試走していなかったが、コースをすべて把握していた。指導する小出義雄監督は「1回ビデオを見ただけで、サーッと地図を書いちゃうんだよ。こんな選手、見たことねえよ」と驚いていた。

前向きな性格も武器だった。優等生タイプに見られるが、20代当時からオヤジ連中の下世話な話にも時に付き合い、時にうまく受け流すなどタフさがあった。走ることで世間を驚かせたい野心、ちゃめっ気もたっぷりあった。

サプライズの一つが、2001年9月の世界記録達成1週間後のシカゴマラソン挑戦。計画は極秘に進められていたが、日本陸連幹部に「無茶はすべきでない」と止められた。直後、帰国した際に高橋は、こう明かしている。

「世界記録を達成したうれしさはありますが、もう一つの目標に挑戦できなかったので、残念な気持ちでいっぱいです」

小出監督も「いろんな方が心配してくれて、泣く泣くやめた。1週間後に、もう1回世界記録を塗り替えたかった。2回走れる練習をやってきたんだよ。できないと決まった時、高橋は大泣きしてました」と打ち明けた。

後から振り返れば、この時が競技人生の最盛期だったかもしれない。もし走っていれば、記録が出せた可能性は十分にあった。

翌2002年9月のベルリンでマラソン6連勝を飾ったが、その後は相次ぐけがなど苦難の道が待ち受けていた。

2002年12月いっぱいで小出監督が積水化学を退社し、自らが立ち上げたクラブチーム「佐倉アスリート俱楽部」での指導に軸足を移した。高橋は監督を追って、2003年2月末日付で積水化学を離れた。しかし、同年11月の東京国際女子マラソンでは失速。2時間27分21秒という平凡な成績に終わった。2004年アテネ五輪の代表権を逃し、2004年9月には右足首を骨折した。

ベルリンマラソンは2001年から2連覇。2001年には当時の世界記録をたたき出している
ベルリンマラソンは2001年から2連覇。2001年には当時の世界記録をたたき出しているベルリンマラソンは2001年から2連覇。2001年には当時の世界記録をたたき出している

「陸上の楽しさを若い世代に伝えていきたい」

2005年には小出監督のもとを離れて独立。「自分の競技人生はあと2、3年。最後は断崖絶壁の環境で100%自己責任で自分を奮い立たせたかった」として「チームQ」を立ち上げた。自らスタッフを集め、運営費を負担する。「(不安は)全くないと言えば嘘になる。一方で、これからの人生にわくわくもしている」と言って、新たな競技環境へ飛び込んでいった。

この年の東京国際女子マラソンで復活を遂げたが、これが最後の優勝になった。2006年11月の東京国際女子マラソンは3位、2008年3月の名古屋国際女子マラソンは27位だった。

引退を表明したのは、2008年10月28日。会見でこう打ち明けた。

「自分が納得いく走りができなくなった。精神的、肉体的にこれが限界なのかなと感じてきました。ただ(名古屋直後の)3月頃に『そろそろ終わりかな』という感じでやめるよりも『限界かな』というところまで挑戦できたことは、陸上人生に悔いなしと感じています」

金メダル後、プロになり、世界記録を樹立し、独立もした。挑戦し続けるマラソン人生に、悔いは残さなかった。引退後については「陸上を通じて多くの方から応援をいただいたので、陸上の楽しさを若い世代に伝えていきたい。この後の人生は、お返しをしていけたらいい」と話した。

高橋の走りが周囲に与えた影響は計り知れない。2004年アテネ五輪で野口みずきが金メダルで続いたことは、高橋が壁を破ったことと無縁ではない。2004年に渋井陽子、2005年に野口みずきが日本記録を更新したが、舞台はいずれも高橋が口火を切ったベルリンだった。高橋にあこがれて陸上を始め、日本のトップレベルに達した選手は数多くいる。何より、明るく楽しくジョギングなどに親しむ人が増えた一因に、高橋尚子の存在がある。

現在、高橋はマラソンの解説はもちろん、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会アスリート委員会の委員長のほか、日本オリンピック委員会理事、日本陸連理事など多くの肩書きを持つ。シドニー五輪から10年以上が経過した。今もまだ、金メダルに続く道を走り続けている。

文=佐々木一郎(日刊スポーツ新聞社|Ichiro SASAKI)

東京オリンピック・パラリンピック組織委員会アスリート委員会の委員長など数々の役職を兼任。今もまだ、金メダルに続く道を走り続けている
東京オリンピック・パラリンピック組織委員会アスリート委員会の委員長など数々の役職を兼任。今もまだ、金メダルに続く道を走り続けている東京オリンピック・パラリンピック組織委員会アスリート委員会の委員長など数々の役職を兼任。今もまだ、金メダルに続く道を走り続けている

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