コービー・ブライアントとオリンピック

バスケットボールであらゆる栄光を手にしたブライアントにとって、オリンピックは新しいチームで自らを試し、母国を復権に導き、“マンバのメンタル”を次世代に引き継ぐための好機だった

バスケットボールでオリンピックデビューを果たした時点で、コービー・ブライアントはNBA王者に3度輝いており、前シーズンのリーグ最優秀選手に選ばれていた。

ロサンゼルス・レイカーズのレジェンドであり、世界ではともかくアメリカでは誰もが知るスポーツ選手だった

しかし、このスターシューティングガードにとって、最大のモチベーションは金でも名声でもなかった。

地球上で最高のバスケットボール選手になること、自分の才能を試すこと、そして国を代表して戦うことがモチベーションだった。

ヘリコプター事故で悲劇的な死を遂げたブライアントは、究極のチームプレーヤーであり、リーダーであることをオリンピック2大会で証明。五輪デビューの前から、自身にとってオリンピック金メダルはNBAタイトル以上に大きな価値を持つものだと語っていた。

金メダル奪還チーム

アテネ2004で、バスケットボール界に衝撃が走った。男子準決勝で、のちに金メダルを獲得するアルゼンチンにアメリカが屈して敗退。コービーは大会に参加していなかった。

圧倒的本命とされながらの敗退に、チームにもアメリカにもショックが広がった。ブライアントは国に威信を取り戻そうと決意を固めた。

フィラデルフィア出身のブライアントは北京出場を熱望した。指靭帯の手術を遅らせるほどに。

「敗北には素晴らしい面もあった。それは僕らの愛する競技の成長を意味するものだったから。でも同時に、『良かったけど、次は栄冠を取り戻すぞ』と思った」。ブライアントは2015年、国際オリンピック委員会のYouTubeチャンネルでこのように語っている。

「(北京)2008の目標は、王座奪回だった。それを目指し、金メダルを狙うのが待ち切れない気分だった。僕らにとっては、金メダル奪回への挑戦だった」

「自分の国を復権に導くのは、僕ら個人個人にとって特別なことだった。国のためにプレーする時は、普段と違う気分になる。NBAでは各都市のためにプレーするが、国のためとなれば一つになる。金メダルを手にするのは、NBA優勝以上に名誉なことだ」

オリンピックに出場したいという意欲の元は、2004年の雪辱だけではなかった。新しい環境を経験し、努力の末に大舞台で輝く権利を得た世界各国のアスリートたちに敬意を払いたい、という気持ちもあった。

「何しろ、各競技のトップ選手が集まる大会だ」

「LA(ロサンゼルス)の街を歩いていて有名人を見かけるのとは違う。アスリート同士だから、もっと特別だ」

「そこへたどり着くまでに、どれほどの努力をしたのか理解できる。だから互いに尊敬し合える」

コービー・ブライアントの“マンバのメンタル”

ブライアントは北京でアメリカの中心選手として活躍。手に汗握る接戦となったスペインとの決勝では20ポイント6アシストをマークし、チームに118-107の勝利、そして金メダルをもたらした。

だが、その洗練されたスキル以上にチームにとって重要だったのは、彼の統率力、そして練習に打ち込む姿勢だった。

チームの初顔合わせで、レブロン・ジェームズドウェイン・ウェイドカーメロ・アンソニーといったNBAのスターらが部屋の後方に座る中、ブライアンはマイク・シャシェフスキー監督の話をしっかり聞こうとチームメートから離れて2列目に座った。

ブライアントの早出練習もチームを感化し、他の選手も朝5時にジムへ向かうようになった。

「あの夏の最初の練習で、彼が基準を作った」。当時USAバスケットボールの会長だったジェリー・コランジェロは、ブリーチャー・レポートでこう語っている。

「ボールが上がり、床に落ちると、彼がルーズボールに飛び込み、拾った。それが始まりだった」

「オリンピックでの経験は世間のコービーに対する見方を変えるとともに、コービーの進化を促した」

リーダーの中のリーダー

円熟味を増したブライアントは、タレントひしめくチームのリーダーとしての地位を築くことができた。

「レブロンはコービーから学べたし、コービーはレブロンから学べた」。チーム最年長だったジェイソン・キッドは、ブリーチャー・レポートでこう語っている。

「コービーは、あらゆる選手にとって模範だった。彼に学んだ選手は皆、その翌シーズンに活躍した。メロやクリス・ポールといった選手、そしてレブロンも、コービーを見て進化した」

「あんな戦士は二度と出ない」

訃報に接したブライアントの五輪監督シャシェフスキーとアシスタントのジム・ボーハイムは、彼の影響力の大きさを改めて振り返った。

「2008年と2012年のオリンピックでコービーを指導できたのは、本当に名誉なことだった。国を代表してプレーすることを心から喜び、愛する競技で最高のパフォーマンスを見せた彼の姿は、今も胸に焼き付いている」。シャシェフスキーはヤフースポーツでこのように述べている。

「特別なプレーをしようと、努力し続けていた。あんな戦士は二度と出てこないだろう」

「バスケットボールが進化したのはコービーのおかげであり、永遠に称賛されるべきだ。彼の死は計り知れない損失だ」

「初日から他の選手の2倍練習していた。レブロン、カーメロをはじめ若い選手を指導し、『これをやれ、やってから帰れ』と指示していた」とボーハイムは証言する。

「アメリカは前年の世界選手権で敗れていた。彼は皆に目標をはっきり示した。そしてチームは予選で敵を圧倒し、オリンピックでも圧倒した。スペインとの決勝は接戦だったが、彼が奮闘し、チームを勝利に導いた」

五輪仲間から相次ぐ追悼

ドウェイン・ウェイドはアルゼンチンに敗れた2004年の決勝を経験し、2008年に金メダルを獲得。ESPNに対し、ブライアンを一つの目標にしていたと語った。

「偉大なリーダーであり、チャンピオンだった。コービーに接することができた者なら、あれ以上の選手はいないと誰もが分かる。リーグでプレーし始め、彼を追った。彼にリスペクトされたいと思った。あのレベルに到達できれば、一流と言えるわけだから」

2008年と2012年の金メダリストで、ブライアントの間近で成長したカーメロ・アンソニーは、コート上にとどまらない結び付きがあったとUSAトゥデイで述べた。

「僕らの友情と関係は、バスケットボールだけにとどまらなかった。家族であり、親友だった。バスケットは僕らをつなげる最後のピースだった」

「最も偉大なアメリカの大使」

オリンピックで“コービーフィーバー”と世界への影響力を目の当たりにしたボブ・コンドロンは、アメリカオリンピック委員会の元メディアサービス・運営責任者だ。

「2008年8月、北京の蒸し暑い朝、アメリカバスケットボールチームがバスで練習へ向かった。ヘッドホンを着けた世界屈指のバスケットボール選手たち。12選手とスタッフが、外の光景に感嘆していた。一人一人に、国を代表して戦う準備ができていた。マイク・シャシェフスキー監督は運転席のすぐ後ろに座り、個性豊かなタレントたちをオリンピックで戦う17日間にわたってどうまとめていくかを考えていた。その右の窓側にいたのがコービー・ブライアントで、アメリカ代表のユニフォームを着用。ウォームアップ着には五輪のマークが入っていた。国を背負って戦うのは、彼にとって重要なことだった。「今日は何をやるんです、監督」と、左に座る監督に尋ねていた。ただバスケットをしたいというだけでなく、チームを良くしようと積極的に関わった。そういった細かいことまで、すべて知ろうとした。そういう積み重ねから、彼のような偉大な選手が生まれるのだ」

「いつも真っ先にバスを降りて練習へ向かっていた。ある時、左を見てあるものに驚いていた。朝早くから、中国の年配女性が10人ほどいて、アメリカバスケットボールチームを見て感激していた。彼はわざわざ歩み寄り、笑顔で言葉を交わして相手を喜ばせた。そういうことを毎日していた」と、コンドロンは追悼で語っている。

「選手の輪に戻るとウォームアップし、シュート練習をした。そして15分ほど、メディア対応をした。私はそこで、スポーツ界でかつて見たことがなかったものを目にした。世界中のメディアがコービーに注目し、何とかコメントをもらおうとしていた」

「彼はアメリカ、イタリア、スペインのテレビクルーに対し、3つのインタビューに3つの言語で応じた。誰も予想しなかったことだが、コービーは10分間のセッションで2500万人の視聴者にそれぞれの言語で語りかけた」

「そして開会式。アメリカ代表チームは体操アリーナに集合し、世界の10億人以上の視聴者が視線を注ぐ“鳥の巣”まで半マイル歩いた」

「その道中、世界中のアスリートたちがコービーを見て興奮していた。ドミニカ共和国の短距離選手、クロアチアのハンドボール選手、ロシアの体操選手、デンマークのフェンシング選手、などなど。皆がコービーに熱狂した。世界で最も有名なバスケットボール選手の激励を求める者、写真撮影を求めるもの、あいさつだけしに来る者。彼は握手を求められるたびに立ち止まり、あらゆるあいさつに応えた。まさに、地球上で最も偉大なアメリカの大使だった」

オリンピックへの関与

引退してからも、ブライアントはオリンピックムーブメントと密接に関わり続けた。

2016年のアメリカ女子体操選手選考会に出席し、競泳のアメリカ代表チームの資金集めに協力。2028年オリンピック競技大会のロサンゼルスへの招致成功にも貢献した。

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